明治9年に綿野源右衛門が寺井地方で最初に兵庫に支店を設け、輸出の道を開く。翌年からは子息吉二が家業を切り盛りし、兵庫の支店を神戸に、さらに13年には横浜に移して九谷焼の販路拡張に務める。20年には自邸内に錦窯を築き製品の向上をはかる。京浜電鉄の前身である大師電気鉄道を創立するなど、横浜経済界の発展にも大きく寄与する。