当初、武器や武具の制作・修理を行っていたところであったが、三代藩主利常の代に、工芸品の制作や補修にも携わるところとなり、五代綱紀の代に本格的な大名道具を中心とする美術工芸品を制作する所に改められた。17世紀末には職人数50余人であったが、19世紀初めには70余人を超えた。江戸、京都と並んで工芸水準の高い町として、今日の工芸石川の礎となった。