作品に記されている落款から、喜多川姓を名のっていたこと、72歳以上の高齢まで存命し、制作活動行っていること、「法橋」の位に叙せられていること、一部の作品に相説の款記と宗雪と記された印を用いているところから、宗雪の正当な弟子の一人と考えられ、宗雪没後の画房の中心となっていた画家と想像される。また宗雪没後前田家の御用絵師として活躍したと思われる。作風は、紙本で墨と淡彩を主調とし、宗雪と比較すると淡白で平板な趣である。