文永 4~正中元:亀山天皇の第2皇子、母は右大臣藤原実雄の女で皇后 子(京極院)。8歳で即位する。在位1274~1287年。弘安10年伏見帝に譲位。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統の対立が生じるが、幕府調停により両統の均衡が図られ交互に治世が行われる。後宇多の院政は2代の天皇の時代に及ぶ。徳治2年(1307)出家し法名は金剛性、出家後は大覚寺に住し密教に専念する。遺詔により後宇田院と通号される。『新後撰和歌集』撰進を命じた。空海尊敬の念も強く、筆跡にも大師風書風の感化が表れる。